現代語訳
この上なくすぐれた願をおたてになり 世にもまれな大いなる誓いをおこされた。
この度は、正信偈「建立無上殊勝願 超発希有大弘誓」について意味を分かりやすく解説します。
語句説明
無上殊勝願・・・最高にすぐれた本願、すべての良い人も悪い人も、平等に救いたいという願い。
弘誓・・・仏が仏になろうとするとき建てる願いを誓願や本弘誓願ともいう。この願いが成就しなければ、私は決して仏にならないと師仏である世自在王仏に誓いをたてられたから誓願という。弘誓とは、広い誓いのこと。法蔵菩薩の誓願は、すべての人々が仏にならなければ、私(法蔵菩薩)は仏にならないと誓われた。またすべての菩薩が共通して起こす願を四弘誓願といい、総願ともいう。それぞれの菩薩の特有な願いを別願という。法蔵菩薩の48願は別願にあたる。
正信偈の原文
建立無上殊勝願
こんりゅうむじょうしゅしょうがん
超発希有大弘誓
ちょうほつけうだいぐぜい
正信偈の書き下し文と現代語訳
【書き下し文】無上殊勝の願を建立し 希有の大弘誓を超発せり
【現代語訳】この上なくすぐれた願をおたてになり 世にもまれな大いなる誓いをおこされた
正信偈の分かりやすい解説
殊勝の願とは
法蔵菩薩が殊に勝れた願いを起こされた事が述べられています。
『仏説無量寿経』の中で、世自在王という名の仏が法蔵菩薩の願いを聞き、あらゆる210億もの仏さまがたの浄土の成り立ちやその国に住む人々の姿をご覧になられたと説かれています。さまざまな浄土を見た上で、法蔵菩薩は「無上殊勝の願」つまりこの上にない、殊に勝れた願いを起こされました。
それは他の浄土とは違いました。阿弥陀様の前身の法蔵菩薩だけ特別だったのです。それは諸仏が救うことが出来なかった人々を目当てとした、浄土に往生できていないすべての人びとを救いたいという願いでありました。
『仏説無量寿経』に
仏説無量寿経
無上殊勝の願を超発せり
(この上なくすぐれた願を起したのである)
と説かれているところを親鸞聖人は、
「無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり」
と正信偈に詳しく言い換えられています。
希有とは
希有というのは「希に有るということ」つまり「希にしかないこと」という意味ですが、親鸞聖人は『浄土和讃』の「生希有心」という場所に、
浄土和讃の生希有心の注釈
まれにありがたきこころというなり
また「如来の光瑞希有」という場所には、
如来の光瑞希有
ひかりありがたしとなり
と注釈をされています。法蔵菩薩は、他に例のない誓いを起こされたということです。ここで「誓い」というのは「無上殊勝の願」が願いのままで終わることなく、その願いを必ず実現させることを誓われたということです。
超発とは
超発とは、他の仏より超えて勝れた誓願を発されたということです。この誓願が、『仏説無量寿経』に説かれている48願です。
48からなる法蔵菩薩の願いのなかで、もっとも重要なのが第18番目の願(第18願)です。
仏説無量寿経の第18願
設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法
【書き下し文】
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
現代語訳
わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。
というものです。とても大切な御文ですので、「原文、書き下し文、現代語訳」を掲載しました。これは「至心信楽の願」「念仏往生の願」といわれます。また「本願」とも言われます。
法蔵菩薩は、世自在王仏の前で願いを発され、そして誓いを述べられました。念仏して浄土に往生することを願う人ならば、誰でも往生させるというのが法蔵菩薩の願いだったのです。
これらをまとめると「無上殊勝の願いと希有の大弘誓」は、ともに第18願を表し、苦しみ悩む私たちにとって、最も優れていて、他に探してもない稀で尊い教えであることを表します。
それを薬で喩えられています。
教行信証
難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまふ。たとへば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。
と述べられています。他の薬では治すことのできない病気でも、たった1つ、その病気を治すことが出来る薬があるならば、その薬は最高の薬と言えます。私たちの人生の行き先も同じように、他の方法では救われない煩悩具足の私たちが、たった1つ救われ極楽浄土に参り、苦しみ悲しみの無い世界に生まれることが出来る教えを、最高の教えと言えるのではないでしょうか。
他の方法を試したとしても、私たちの重い罪が滅することはできません。それほど深く重い罪を作り続けてきたのが人間の姿なのです。その私を目当てに仏となられたのが、阿弥陀様だったのです。その起こされた願いと誓いとは、この上もなく優れたもので、すべての人を救いたいという稀な教えであり、そのまんまが私が救われるべき、たった1つの道であることを示されます。
唯除について
第18願の中に「ただし五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」とあります。
法蔵菩薩がすべてのものを往生させると願いながら、この「唯除」という言葉には、排除される者があるように見えて、差異を感じる方もおられるでしょう。しかし、この文は「抑止文」といわれ、「唯除」とは往生から排除することが目的なのではなくて、このような「五逆」や「誹謗正法」(五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗る)の罪を犯さないようにと、いましめられている教えなのです。
なお、五つの重い逆罪とは、父を殺すこと、母を殺すこと、阿羅漢(聖者)を殺すこと、仏のお身体を傷つけ血を流させること、サンガ(教団・念仏者の輪)の調和を破って分裂させることです。
これらの重罪を犯した人としてよく知られているのは、『仏説観無量寿経』に登場するマガダ国の阿闍世王子と提婆達多という仏弟子です。阿闍世王は、父の王の頻婆娑羅王を死にいたらしめて王位を奪い、そして王を助けようとした母の韋提希夫人をもう少しで殺すところでした。また仏弟子でありながら釈尊に反逆した提婆達多は、お釈迦様を害そうとして傷を負わせ、それをたしなめた阿羅漢である比丘尼を殺害し、仲間を引き連れてサンガから去って行ったと伝えられています。
五逆とは
①父を殺すこと
②母を殺すこと
③阿羅漢(聖者)を殺すこと
④仏のお身体を傷つけ血を流させること
⑤サンガ(教団・念仏者の輪)の調和を破って分裂させること
正信偈の出拠【参考文】
『大経』厳浄の国土みなことごとく覩見して無上殊勝の願を超発せり。その心寂静にして志、所着なし。一切の世間によく及ぶものなけん。五劫を具足し、思惟して荘厳仏国の清浄の行を摂取す
『教行信証』「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。
『論註』この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、尺蠖[屈まり伸ぶる虫なり]の循環するがごとく、蚕繭[蚕衣なり]の自縛するがごとし。あはれなるかな衆生、この三界に締[結びて解けず]られて、顛倒・不浄なり。衆生を不虚偽の処、不輪転の処、不無窮の処に置きて、畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす。このゆゑにこの清浄荘厳功徳を起したまへり。
『論註』「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるがゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄に入らしむるがゆゑなり。
『教行信証』一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無礙不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
『愚禿鈔』二には深心。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。一には、決定して〈自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし〉と深信す。二には、決定して〈かの阿弥陀仏、四十八願をもつて衆生を摂受したまふ、疑なく慮りなく、彼の願力に乗ずれば、さだめて往生を得〉と深信せよ」となり。いまこの深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。
『本典』難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまふ。たとへば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。濁世の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなり
『選択集』しかるによく逆罪を除滅すること、余行の堪へざるところなり。ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。